政治混乱

アラブの春とは一体何だったのか?

アラブの春とは

2月25日、エジプトで約30年にわたり独裁政権を率い、2011年2月に民主化運動「アラブの春」と大規模な反政府デモで退陣したホスニ・ムバラク元大統領が死去した。91歳だった。

ムバラク氏は11年5月、反政府デモ隊の殺害に関与した罪などに問われ、いったん終身刑を言い渡されたが、13年のクーデターを経て誕生したシシ政権下で旧ムバラク政権幹部に寛容な司法判断の流れが強まり、無罪が確定。17年3月に釈放されていた。

アラブの春を今改めて理解をする!

アラブの春とは一体何だったのか?

2010年から2012年にかけてアラブ世界において発生した、前例にない大規模反政府デモを主とした騒乱の総称である。2010年12月18日に始まったチュニジアのジャスミン革命から、アラブ世界に波及した。また、現政権に対する抗議・デモ活動はその他の地域にも広がりを見せた。

中東地域は、世界の原油・天然ガスの産出・埋蔵量の多くを持ち、アラブ世界の中のユダヤで核保有国と目されるイスラエル、世界の大動脈スエズ運河を抱えるエジプト、シーア派の大国のイラン、イラク戦争から再建中のイラク、アラブ諸国ともアメリカとも対立するカダフィ大佐のリビア、石油の富が公平に分配されていない湾岸諸国、対立が続くスンナ派とシーア派などを抱えていた。

幾多の戦争が起きた地域であり、情勢が不安定であったこの地域だが、2011年にチュニジアやエジプトなど30年以上の長期独裁政治が、数か月足らずの間に相次ぐ民衆のデモ活動で揺らぐことになった。 世界経済が不調のなか、もともとエジプトの騒乱では小麦価格の高騰による貧困層の困窮や、若年失業率(多いところでは5割)の大きさが原因としてあげられている。逆に革命を引っ張っているのは、まだ少数ながら教育を受け経済力を持ち、情報手段を持つ中間層である。

これらの革命の背景にはソーシャルネットワーク(SNS)の役割も大きいとされる。衛星放送やインターネットの普及で情報は瞬時に伝わり、携帯電話、ツイッター、フェイスブックなどで抗議活動に関する呼びかけなどが行われた。

さらに、イスラム教の合同礼拝(国民的宗教行事のため禁止は不可能)のため合法的に人が集まり、情報や人々の感情などが直接伝わることも革命を後押しするのに功を奏した。さまざまな情報に加えて、政権側によるデモの弾圧などで犠牲となった死者の棺は大通りを練り歩き、治安部隊などの行動は周知されることとなった。

始まりはどこから?

2010年12月17日、チュニジア中部シディ・ブジドにて失業中だった26歳の男性モハメド・ブアジジ氏が果物や野菜を街頭で販売し始めたところ、販売の許可がないとして警察が商品を没収した。これに抗議するためにガソリンをかぶり火をつけ、焼身自殺を図った。

チュニジアでは失業率が公表されている14%よりも高く、青年層に限れば25~30%という高い水準に達しており、同様に街頭で果物や野菜を売り生計を立てる失業者も多かった。このトラブルがブアジジと同じく、大学卒業後も就職できない若者中心に、職の権利、発言の自由化、大統領周辺の腐敗の罰則などを求め、全国各地でストライキやデモを起こすきっかけになった。

次第にデモが全年齢層に拡大し、デモ隊と政府当局による衝突で死亡者が出るなどの事態となった。やがて高い失業率に抗議するデモは、腐敗や人権侵害が指摘されるベン=アリー政権の23年間の長期体制そのものに対するデモとなり、急速に発展し、その後、チュニジアの政権は崩壊した。

アラブ各国への広がり

チュニジアでの一連の出来事(ジャスミン革命)は、瞬く間にアラブ諸国へ伝わった。

2011年 ヨルダン

ヨルダンでも早い段階で反政府運動が飛び火し、サミール・リファーイー内閣が2011年2月1日に総辞職した。

2011年 エジプト革命

エジプトでは1月25日より大規模な反政府抗議運動が発生、これにより30年以上にわたるムバラク大統領下による長期政権が崩壊した。

2011年 バーレーン騒乱

立憲君主国のバーレーンでも反政府運動が計画され、政府は給付金を全世帯に給付するなど対処したようにみえたが、首都マナーマの真珠広場で行われた中規模反政府集会を政府動員の治安部隊が強制排除し、死者が出る事態となった。

2011年 リビア内戦

カダフィ大佐による独裁体制が敷かれているリビアでも、カダフィの退陣を要求するデモが2月17日に発生。2月20日には首都トリポリに拡大し放送局や公的機関事務所が襲撃・占拠され、軍はデモ参加者に無差別攻撃を開始し多数の犠牲者が出た。

政府側はサハラ以南のアフリカから多額の時給で民兵を雇用し、反政府派も施政権が及ばなくなったとされる東部や南部で武器をとり掌握するなど勢力を拡大、首都での戦いが避けられないという見方が報道によりなされた。これを受け、国連安保理は「民間人に対する暴力」としリビアに対し経済制裁と強い非難決議を採択した。その後、半年間に及ぶ事実上の内戦状態に突入したが、NATOによる軍事介入もあり、8月24日には首都トリポリが陥落、カダフィも殺害され、42年間に及ぶカダフィ政権が崩壊した。

2011年 イラン

また、イランもこれらアラブ諸国の情勢に介入、エジプトやバーレーン、イエメンの野党・反政府勢力に接触し、その後のイエメン内戦でフーシ派を支援した。

なお、カタールなどアラブ諸国の中でデモなどの動きがほとんどない国もあった。

アラブの春の混乱は今も続いている

アラブの春は大衆による独裁政権、既得権益者に対する勝利と言えるが、その後、政治、経済が安定し成長を遂げているわけではなく、各国で混乱は続く。

日本を含めた欧米の資金は混乱状態のアラブ各国には継続的に大きく流れ込むこともなく、経済の二極化は解消せず、貧困は減らず、若年層の失業率は高いままである。

欧州移民問題の根本の原因のひとつはアラブの春にあり、ヨーロッパ、中東全体の今後のリスクの一つとして、この問題を捉えていくと、今後の投資への影響を理解することもできるであろう。

混乱の中、医療体制も整っておらず、新型コロナウイルスの発症、感染拡大が進めば、民衆のデモにもつながり、さらなる混乱が広がる可能性も高い為、このリスクも考慮すべきである。

アラブの春が起こった2011年は、2007年のサブプライム危機、2008年のリーマン・ショック、そして2010年の欧州ソブリン危機のあとに起こっているという時系列にも注目すべきであろう。

そして、新型コロナウイルスの感染拡大による経済混乱が、今後、現在ある世界の様々なリスクを表面化させていく可能性も考え行動する必要があるだろう。

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