ソビエト連邦は冷戦後の超大国
第二次世界大戦後の冷戦時代、ソビエト連邦は揺るぎない超大国と思われた。
しかし、ほんのわずか数年で崩壊してしまった。原因は何処にあったのか?
原油価格が暴落し、資源国であるロシアの財政は非常に悪化し、再度体制が崩れる大きなリスクにある。改めて今理解を深めてみよう。
ルーブル円の為替相場は?
2008年8月 1ルーブル:4.41円
2014年2月 1ルーブル:3.52円
2020年1月 1ルーブル:1.79円
2020年3月 1ルーブル:1.37円
12年前と比較し、ルーブルは70%近く円に対して暴落している。
ソ連崩壊の日は1985年9月13日
ソ連崩壊の日はいつなのか? ベロヴェーシ合意(ソ連の消滅と独立国家共同体(CIS)の設立を宣言)の日でもなく、1991年の8月クーデターの日でもない。
1985年9月13日なのだ。
この日に何があったのか?
ソ連崩壊の原因は原油価格の下落が引き金に
サウジアラビアのアハマド・ザキ・ヤマニ石油鉱物資源相が、サウジアラビアが石油減産に関する協定を終了したと宣言し、石油市場におけるシェアを拡大し始めたのだ。
1986年に原油価格が下落したことが大きな転機となり、ソ連にとって収益を生み出すためのあらゆる可能性が崩れることになった。原油収入は、穀物の購入に必要な資金をもたらした。ソ連では穀物の17%は輸入に頼っていた。
原油収入は、ソ連が西側から消費財を買い、エリートへの賄賂にも使われていた。
長期的な原油価格の下落傾向は、原油収入の減少でさらに悪化させ、ソ連の経済モデルの崩壊をもたらすことになった。
非効率な経済で消費財は常に品薄で品質も悪かった
ソ連経済の非効率性にも問題があった。基本的な消費財は常に品薄で品質も悪い。
ソ連時代の最後の数十年には、経済成長率は確実に低下し、商品の品質は悪化し、技術の進歩は鈍化した。これらすべての欠点は、慢性的な性質のものだった。ソ連の公式統計によると、国内総生産(GDP)は、1990年、崩壊の1年前に初めて減少している。
民族間の緊張
1980年代後半、ペレストロイカの時代には、各ソ連構成共和国では、民族主義がぶつかり合って生じる対立、紛争がますます激しくなっていった。
民族主義による暴力の最初のケースは、1986年末にカザフスタンの首都アルマトイで起きた。カザフ人の若者は、共和国の首長としてロシア人が任命されたことに失望した。やがて、不穏な状況を鎮めるために軍隊が派遣された。
アゼルバイジャンの都市スムガイトで集団的破壊行為が発生し、グルジアの首都トビリシでも暴力的事件があり、またアゼルバイジャンの首都バクーその他でも暴力沙汰の事件が起きた。
最悪の流血をともなった紛争は、アゼルバイジャンとアルメニアの間にある都市、カラバフで生じた。これはソ連崩壊の引き金となった主な政治的誘因のひとつと考えられている。1980年代後半までに、民族紛争は新たな、そして致命的な転機を迎え、何百、何千もの命を奪った。
しかし、1990年の時点でも、ソビエト共和国の大多数はソ連を離脱することを望んでいなかった。バルト三国とグルジア(ジョージア)だけがはっきり分離主義的な道に踏み出しただけだった。民族の分離主義の運動がソ連の国家の構造にもたらしたあらゆる危険にもかかわらず、それだけではソ連を崩壊させるには足りなかった。
ソ連の崩壊はゴルバチョフの改革が原因?
脆弱な経済状況と高まりつつあったナショナリズムは確かに重要だが、ソ連の崩壊を引き起こした要因は、ゴルバチョフのペレストロイカとともに1980年代半ばに始まった、この国の指導部の行動だと考えられる。
ゴルバチョフが故意に社会主義とソ連を破壊しようとしたという、ロシアで広まっている陰謀論さえある。ペレストロイカは、それまでに悪化の兆しが見られたソ連の体制を改革しようとしたものだった。最初の改革である経済の加速は、現代化された社会主義の可能性を解き放つはずだった。
ゴルバチョフの最善を目指した意図にもかかわらず、経済は加速に失敗し、それとは反対に、ゴルバチョフの非効率的な政策は、国家を弱体化させる下方スパイラルにつながった。ゴルバチョフ以前のソ連システムはうまくいっていなかったが、ゴルバチョフの改革のせいでソ連は機能停止に陥ることになった。
ロシアのインフレ率はどの程度?
ロシア国家統計庁によると、91年の物価上昇率は160%、92年は2508%としている。失業率に関しては、賃金未払いなどを合わせると2ケタを超えていたとも言われているが、体制崩壊時のことでもあり、正確な情報は不足している。
崩壊以前までの計画経済では、労働は国民の義務とされ、失業者はあまりいなかった。しかし民営化により経営困難に直面すると日常的に解雇が行われるようになった。
今まで職を失うということがなかったため、とうぜん雇用を支援するような市場も整っておらず、失業者は増加した。1991年7月に職業安定所が設立され、失業手当の給付が始まったが、賃金上昇率が物価上昇率を大きく下回る状態が続き、企業に勤めている人も実質賃金(給料で買える物の量)の低下により生活が苦しくなっていった。
アフターコロナ、ソ連崩壊時の国民生活崩壊のリスクは既に日本にも当てはまっている。歴史は必ず繰り返される。他国で起こった状況を理解し、自らの知恵として活かすことが必要な時代なのである。
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